定義論争の類についての雑感記事です。そこそこの分量になったのでブログに記録しておきます。
1.本質と愛おしいものの違い
「葬送のフリーレン」の人気で改めてファンタジーと異世界ものの違いを問う動きがあるように見えるが、私はこれは「ハンバーグはナイフとフォークで食べないと駄目か、箸で食っても変わらないか」みたいな話なのではないかと思う。
切り方で肉汁が、みたいな専門的な話はさておき、変わるか変わらないかで言えばどちらも「ハンバーグを食べている」のは変わらない。食器の違いは本質的ではない。論理的でない、と言ってもいい。
けれど一方で私達は、ハンバーグという本質以外からも情報を受け取ってもいる。子供の頃に親しい人と食べた安物の料理やお菓子がどんな高級品より思い出に残るように。店の雰囲気次第で料理の味が変わってしまうように。
本質が大事だと言うけど私達は本質以外を見聞きしたりそこから影響を受ける方がずっと多いし、そこに本質とはまた違う「愛おしいもの」とでも呼ぶべき何かを見つけられる、あるいは見つけてしまう生き物なのだ。
そう考えると、ファンタジーと異世界ものの論争とは本質ではなく愛おしいものを巡る争いなのではないか。異世界ものがかつてファンタジーと呼ばれたものから受け継いだ「本質」からはこぼれ落ちてしまった、くだらなくて愛おしいもの。その愛おしさは究極的には異世界ものを拒絶する当人にしか分からない。共有などできない。
2.定義論争でたどり着けないもの
お約束を土台とした異世界ものがファンタジーの本質を外しているかと言えばそれは否だろう。作品の本質はもちろん何を描いているかにあり、お約束の有無に意味はない。用語や単位を独自にすればいいってものではないし、そもそも国内の昔の作品だって海外の要素を今から見れば不勉強に、無節操に繋ぎ合わせて作られたものに過ぎない。
けれど国内の昔の作品をオリジンとした人の一部にとって、出来不出来の事実や真実、ファンタジーの本質は意味を持たない。真っ白なノートに書き込まれたようなファンタジーだと感じた当時の気持ちが「愛おしくて」、それがなければ満足できない。
私自身も異世界ものにあまり食指が動かない方なのだが、それはお約束とその破壊というフォーマット自体に興味が持てないというのがおそらく大きい。見れば感動できるはずとは思っても、だ。まあ、今はファンタジー的な世界観そのものを食べ飽きてるというのも正直なところなのだけど。
なのでまあ「こんなのは○○じゃない」と言ってる人はたいてい本質が見えてないし、本質によってその愚かさを明らかにできると思ってる人も本質しか見えてないのではないか。そんなの、話が交わるわけがないのだ。話が成立するとしたら、その交わらなさを互いに理解するところから始めなければならないのだと思う。